織田信長居館

別名-  付近住所 岐阜県岐阜市千畳敷下 現在 岐阜公園
2008/9/15 碑・案内板アリ


信長公以前の居館 -斎藤氏の時代-
 柵の下に見えるのは巨石列通路の下層から見つかった石積みの穴と階段です。
 1567(永禄10)年の信長入城以前、ここには斎藤道三、義龍、龍興の居城がありました。みちかった階段等はその時代のものと考えられます。斎藤時代の地面の上には炭層もみられ、信長が稲葉山城を攻略した際、火災が起こったことを物語っています。
 居館の入口は巨石列通路で大きく改変されましたが、段々の地形など基本的な部分は斎藤氏の時代に造られたと考えられます。

 永禄10年(1567)織田信長は、稲葉山城主・斎藤龍興を追放し、「井口」から「岐阜」とその名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点とした。金華山の西麓にあたるこの辺りには人工的な二〜三段のテラス状地形があり、最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下という。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で壮麗なものとして紹介した信長の居館の跡といわれている。
 昭和59年から行われた発掘調査で、両側に板状の巨石を並べ、千畳敷下から千畳敷へと折れ曲りながら上っていく通路をはじめとして、その途中や周囲に配置された土塁状遺構・石垣・階段・水路などが発見された。岐阜城は、信長が近江の安土へ移った後、慶長5年(1600)関ヶ原戦の前哨戦で落城するまで続くが、これらの遺構の多くは、その出土品などから信長時代にその基本的な造作が完成したと考えられる。巨石を用いる例は、江戸時代の大阪城大手門や搦手門などにうかがえるが、この時期には稀である。
 発掘調査では、これらの遺構の下にさらに古い時代の遺構群が存在することが確認されている。石垣・石積施設・階段状遺構などで、これを破壊、また埋めて作られた通路など上層遺構が信長によるものとすれば、稲葉山城に係る斎藤氏時代の可能性が高い。また数枚の整地した土層が上下に重複していることが確認されているが、この中にはいくつかの焼土面が含まれており、施設の焼亡を挟んで複数の城主による造成が行われたことを示唆している。
 壮麗豪華な建築と伝えられる信長の居館そのものの建築遺構はまだ確認されていないが、中世から近世への過渡期の様相を探る上で極めて重要な遺跡である。